何物でもない死

今、私が勤務している介護老人保健施設は100人まで受け入れることができる設備があり、常時95人以上の方が施設内で生活されています。その方たちの平均年齢は80歳を超えており、8割くらいが女性です。 

施設の設立は平成7年で設立当初からの経緯からして、施設の利用者は地元の方たちがほとんどです。

私が施設長として勤務しだした平成20年4月から現在までに、私が自署した「死亡診断書」は約200通を数えました。

医師の役割のひとつは、医療行為の一環として「死亡を診断する」ことです。施設に勤務し始めて3年間くらいは、「施設で生活されている方の死亡の診断」を粛々とやっていたわけです。ギリシアの哲学者エピクロスが述べたように「死はわれわれにとって何物でもない、と考えることになれるべきである」という態度を実践的に学んでいたともいえるでしょう。

エピクロス(紀元前342年―紀元前271年)の言葉にもうすこし耳を傾けてみましょう。

「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何物でもないのである。なぜかといえば、われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きている者にも、すでに死んだ者にも、かかわりがない。」

死の評価

「何物でもない死」を粛々と「診断」して「診断書」を作成していたとき、ふとある思いが頭をよぎりました。「私は、何物でもない死に価値付けをしている」と。

「死亡診断書」の用紙は法律で決められた形式になっていて、「死亡診断書」と「死体検案書」とは一体のものになっています。簡単に言えば、「死亡診断書」は、医師が死亡した人の死に至るまでの経緯を充分に把握している場合に作成します。「死体検案書」は、どういう経過で死に至ったか医師が把握していない、あるいは把握できない場合の死亡事象に対して作成します。「何物でもない死」であっても、その事象を医師が医療行為を介して把握しているか否かで、その死の評価は、「病死あるいは自然死」になるか「不審死」になるかの違いが出てきます。

私が大阪で診療所を開業しているとき、ある高齢の女性が初診で来院されました。ご本人の病気のことではなく、自宅でねたきりになっているご主人のことでの相談でした。ねたきりになったご主人を家族が今までずっと自宅で介護されてきたのですが、特にかかりつけの医師はおらず診察も受けたことがないとのことでした。要するに何かの病気を発症してねたきりになったのではなく、徐々に老衰が進んでねたきりになっていたわけです。元気なときは全く医師にかかったことがなかった方のようでした。それで、何の相談なのかとお聞きしたら、家族全員はこのまま自宅でねたきりになったご主人を看取るつもりでいるが、本人の体調の変化を把握してくれているような医師を見つけておかなければいけないと知人からアドヴァイスを受けたとのことだったのです。つまり、死亡を確認して死亡診断書を書いてくれる医師を確保しておかなければ大変ですよといわれたとのことでした。何が「大変」かといえば、自宅でご本人が死亡された場合、かかりつけの医師がいないからといって家族が警察に連絡すれば、「死亡事件」として取り扱われます。経緯を何もしらない医師に「往診」を要請して、「死亡診断」をしてもらおうと思っても、まず一般の医師はそのような事例には応じないでしょう。万が一、そのような「死亡事象」に突然立ち会ったとしても医師は、「死の評価」が不可能ですから、「不審死」と認識します。「不審死」と評価されれば、へたをすれば「刑事事件」として家族が「殺人容疑」で警察の捜査を受けることにもなりかねないわけです。

この方については、私がかかりつけ医になってご本人の体調の変化をチェックし、何の治療的処置はしませんでしたが、ご本人がご自宅で亡くなられたとき、往診をして「何物でもない死」を確認し、「老衰による自然死」ということで死亡診断書を作成しました。

ご家族の方たちは、ご本人が亡くなってからこんなふうにつぶやいていました。

「本人は、医者いらずでずっと生きてきましたが、死のときだけは医者が必要だったんですね。」

安楽死

生きている人間は、古今東西を問わず、誰でも、「安らかな状態で死を迎えたい」と思うのが自然です。病気や障害をかかえていても、それを苦痛とは思わず人生を楽しみそして安らかに死を迎えることは誰にでも可能なことです。

そういう死に方を「安楽死」というのかと思ったら、どうも言葉の意味がちがうようです。安楽死という用語は、ギリシア語が語源のeuthanasisの訳語です。語源の原意は、「安らかに死なせる」ということです。霜田求氏の「尊厳死安楽死―問題点の整理」によれば、安楽死とは、回復不能な末期の患者、または受容不可能な肉体的ないし精神的な苦痛を抱く人に対し、周囲の者が人為的に死に至らしめること、と定義されます。要するに、安楽死は「他殺」なのです。

この「他殺」は、法的には、罪に問われる殺人行為とはみなされないようですが、病気あるいは障害ということが必ず関連しています。「周囲の者」というのは、医療現場では医師をさし、医療現場以外では、家族とか友人などの身内の者をさすでしょう。

「受容不可能な苦痛」というのは、死に至らしめられる本人のみならず、死に至らしめる周囲の者にとっての「感覚」なのです。エピクロスは、「死は感覚の欠如である」といいました。本人にとっても周囲の者にとっても、受容不可能な苦痛を消し去るもっとも確実で安易な方法は、苦痛という感覚を呼び起こしている存在を死に至らしめることであるのは確かです。

尊厳死

1981年に世界医師会(World Medical Association)が、「患者の権利に関するリスボン宣言」を採択しました。この宣言では、「尊厳の権利」(Right of Dignity)として、「尊厳を保ちながら安楽に死を迎える権利」がうたわれており、このリスボン宣言採択以降、日本でも「尊厳死」(Death with Dignity)という言葉が盛んに使われるようになってきました。「尊厳」という言葉自体は、以前から使用されている用語で、たとえば、医療法の総則の文中にも、「医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、」というような具合に表現されています。 dignityの語源は、ラテン語のdignitasで「価値あるものごと」「良質」「長所」などの意味があります。

一般的には、死というのは、人間にとって不安・恐怖の対象であり

忌み嫌われるものであります。どちらかといえば、「価値あるものごと」の対極にあるように見られていた「死」に価値を見出しその長所を評価しようとした意図が、「尊厳死」という言葉にはこめられています。

「個人の尊厳」という内容は、ひとりの個人がいのちを与えられて生まれ、成長し、病気にもなり、成人後は加齢による老化がおき、そして人生の死を迎える、という生活のすべてのイヴェントに「価値がある」ということです。与えられた生命を活かす「権限」(right)は、ひとりひとりの個人にあるという趣旨が「尊厳の権利」の本意であるはずです。

ところが、「死」だけに焦点が当てられ、「尊厳死」を「死ぬ権利」だなどと早合点して、個人の尊厳ある生活のすべてのイヴェント・プロセスを無視するかのような傾向が一部にあるのは、とても残念です。「尊厳」という価値感覚は、生きているゆえに生じているものです。「死は感覚の欠如」ですから、死というイヴェントによって「尊厳」は消滅します。ですから、死ぬ当事者にとっては、「尊厳ある死」は存在しません。「尊厳死」の価値が存在するとしたら、それは、死んだ当事者を評価した周囲の「生きている人間たち」の中にあるだけでしょう。

平穏な死

石飛幸三先生が、2010年に「平穏死のすすめ」という本を出版されました。

彼は、出版の動機をこう語っています。

「そもそも、医者は患者を生き延びさせることに最大の力を注いできましたが、その後のことはほとんど考えてこなかったのです。―――生存することをやめようとしている人間の体の声を、私たちはもう少し大事にすべきなのかもしれません。―――最期の時をどう迎えたいかは個人によって異なりますが、そのことを考えること自体は今元気に生きている者にとっても無意味ではありません。ましてや高齢の家族を抱える者にとっては、一度きちんと向き合って考えるべき重要な問題だと思われます。―――

高齢化社会を迎えつつある今、本当のあるべき医療について、また死の迎え方について考えるヒントになればと思い、この本を書きました。」

前号において、私は、現在の医療のフレームワークは、基本的に「非常事態におけるクライシスマネジメントとしての医療」だといってよいでしょう、と述べました。現場の医療従事者の仕事は、目の前の人間のいのちをできるだけ救い、生き延びさせることに尽きます。その後のことは「考える必要がなかった」のです。

しかし、現在の社会は、「非常事態におけるクライシスマネジメントとしての医療」だけでは不十分です。これと次元を異にするレヴェルで「平時におけるリスクマネジメントの医療」のフレームワークが複合・重合して必要になります。

その場合には、人間の生活そのものが「リスク」(不確定性)として認識されます。リスクマネジメントの基本的観点は、「リスクそれ自体に善し悪しがあるのではなく、マネジメントのあり方次第で結果に善し悪しが生じる」というものです。「死」というリスクについていえば、人間にとって「死」が善いか悪いかではなく、誰にでもおきる「死」をどうマネジメントするかによって、その結果に善し悪しが生じると考えられます。

「平穏な死」という「よい死」があるわけではなく、誰にでもおとずれる「何物でもない死」のマネジメントの具合如何で、「平穏さ」という結果を生むことができるのです。

看取り

施設で亡くなった方の「死亡診断」は、ほとんどが「老衰」です。老衰で亡くなられる場合、死を迎える本人にとっては、「死は何物でもない」のですが、その死を迎える本人の周囲で「生きている人間たち」は、「本人の死」に対して千差万別なおもいがこめられていることを実感するようになったのが、施設で働いて3年間が過ぎた頃です。周囲で「生きている人間たち」は、必ずしも死を迎える本人の家族・親類の人達だけに留まりません。施設ではたらいている看護師・介護士・物理療法士・栄養士などの専門職員や一般職員も含みます。

そこで、平成23年に私は、とりあえず職場の看護師に対して、「何を看護(みまも)り、どう看取(みと)るのか」というテーマで、施設に入所されている方が、人生の終焉―死―をむかえるとき、看護師はそれにどう対応するのがよいかについて、看護師ひとりひとりに考えてもらうための素材を提供しました。

人間いろいろ、人生いろいろ、死もいろいろ。それぞれの人の死に対する「看護の集大成」が看取りであると位置づけて、看護師自身が、自らの死に対する「不安と恐怖」を潜在させているままでは、「看護の集大成」である看取りは不可能だと意見しました。看取りは、看護師自身の生き方のわざであり、「死に遭遇している本人」ではなく、その本人を見ている周囲の家族・親類などの人たちへの教育が、看取りにおける看護業務の一番重要な点ではないだろうかという問題提起をしました。要するに、看取りに必要なのは、机上の「死の医学」ではなく、実践的な「生きる教育」なのです。「生きる教育」とは「生活のリスクマネジメント」といってよいでしょう。

(この文章は、私が、Business Risk Management誌平成25年2月号に寄稿したものの一部です。)  

はてな?で充ち満ちているのが、人間の身體。発生学では、人間の身體は、「三葉性」でできていると説明されている。「三葉性」というのは、外胚葉・中胚葉・内胚葉のこと。精子卵子が合体して「受精卵」ができると、たったひとつの「細胞」だった受精卵は、どんどん「分裂増殖」をはじめて「胚」をつくっていく。「胚」の初期は、外胚葉由来の「羊膜腔(amnion cavity)」と内胚葉由来の「卵黄嚢(yolk sac)」が主にできてくる。「羊膜腔(amnion cavity)」は、「神経管」になっていき、卵黄嚢(yolk sac)」は「腸管」になっていく。私たちの身體のボリュームの大半は「筋骨・血肉」「臓腑」であるが、これらの組織は「中胚葉」由来といわれている。ところが、「中胚葉」というのは、「胚」のはじめからあるわけではない。古来からある「神話」では「天地交わりてクニ生ず」(天の神と地の神が協働してクニのカタチを創生していく)あるいは「天地人」(天界と地界とのはたらきで人界が生まれる)という。はてな

人體の「中胚葉」は、はてさて、これらの「神話」のように、天(外胚葉)地(内胚葉)が交わって協働することによって生じるものなのか?

地球上には、「二胚葉生物」というものもいる。あるいは、「単細胞」だけの生物もいる。胚葉に分化していない単細胞生物が圧倒的に多い。

人體の「中胚葉」の起源は、はてな